5/15  今日の駄文 〜説教風味〜



5/15  今日の駄文 〜説教風味〜

 叱る、諌める、苦言を呈す
 説教、お小言、意見、忠告
 
他人に注意する、というのは実に勇気のいることだと思わないかね?

いや、昨今の世情から見て注意という行為が直接的な危険を招く、などということもあるが、今回の話はそうではなくもっと本質的なことだ。

注意するということは相手がしたその行為を矯正するということだ。
 だが、その矯正は本当に正しいのか?
『ただ自分が気に入らないから』相手にその行いを止めさせている、そうでないと言い切ることが出来るのか?
物事の善悪なんてものは自分が判断するのではなく、世間、大衆、もっと近くで言えばそれを見た他人が判断することだと言われる。

自分の善悪に関する判断基準が世間一般のそれと正しく合致していると言い切ることは出来るかね?

 わたしの様に自分に自信が無い人間からすれば、他人に良くも悪くも大きな影響を与えるなんて、とてもじゃないが出来やしない。
矯正なんて他人に影響を与える最たるものの一つであり、正しく機能すれば生涯付いて回るものだ。
 
 だがまぁ、怖いからそれをしないというのは、もちろんただの逃げ以外の何者でもない。
怖かろうが気が進まなかろうがやらねばならない時はくる。
例えば子育てを行う際には100%と言っていい確率で子供を叱る日がやってくるだろう。
子供を叱らない、叱れない親というのは恐ろしいものだ。

叱られず、正しいことを教えられずに育った子供が、果たして誰かから愛される人間になれるのだろうか?
自由奔放と傍若無人はまったく違う。

 あなたはあなたの周りで好き勝手に振舞う人間を敬愛出来るか?
そういった人間はおそらく、どこに行っても煙たがられている事だろう。
大人であればなおさらだ。

大人に面と向かって注意できる立場にいる人間は少ない。
注意する義理も人情も持ちにくいのが現代だ。
見知らぬ他人には苦言を呈す事が出来なくとも、せめて自分の子供や親友には注意を出来る人間でありたいと、私は思う。